朝倉千恵子オフィシャルブログ

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私の命

本日は亡き母の79歳の誕生日です。

 

母がいなければ、私はこの世に誕生することは

ありませんでした。

 

改めて母が産んでくれたことに心から感謝します。

 

2019年11月3日午後5時5分

母が亡くなりました。

 

最期の最期の瞬間まで
頭を撫で、声かけしました。

 

あたたかいタオルで顔を拭いてあげた後に
安らかに永眠しました。

 

お陰様で、母の最期を看取ることができました。

心より感謝申し上げます。

 

阿部・牧野の心遣い、社員の配慮のお陰で

12日間も一緒に母と過ごせました。

 

振り返ってもやはり、

奇跡の時間でした。

 

母は、ずっと私と一緒にいれて物凄く喜んでいたと思います。

 

人生最期に色んなものが見えると言いますが、

母が一番したかったこと

 

「○○春子さんは
きっと娘さんと一緒に過ごしたかったんですね。」

と看護師さんがおっしゃいました。

 

ずっと手を握り頬におでこにキスをして、
最期はずっと頭を撫でて声かけしました。

 

ありがとうございます。

 

誰と大切な時間を過ごすか?

 

わたしは今回
物凄く大事なことを教わりました。

 

「ももええんちゃうの

八方美人は…」と

弟の嫁に声に出して言われているようです。

 

一番母を見舞い、
最後までよくしてくれたのは弟の嫁です。

 

「お姉さん
仕事、仕事、
会社、会社、
社員、社員…

 

親 どないするのん?」

と言われながらも
休みも取らず頑張り続けました。

 

「平成」時代は
とにかく働きました。

 

母と過ごした2週間・・・

いろんな意味のある奇跡の時間でした。

 

ここからの人生、
恩送り・恩返しの人生に必ずします。

 

そして本日は母の79回歳のお誕生日

 

今回は母を偲んで

ブログに母のことを綴りたいと思います。

 

10月22日AM7時35分

弟から電話がかかってきました。

 

「母危篤」

もう時間の問題。。。

 

「個室に移ったら東京のお姉さんにも連絡を入れてください」

 

看護師さんからそう言われていたようです。

 

実際は真夜中の3時台に入院している病院から

危篤の知らせがあったようです。

 

医師からは「延命治療はしますか?」と具体的な話があったそうです。

 

日常で、弟から電話がかかってくることはまずないです。

普段はラインで用件がきます。

 

弟からの電話の時間帯で、ある程度覚悟は決まっていました。

 

一番最初は、祖母のとき

弟からのいつもと違う時間弟での電話には意味がある。

 

だから直接受ける

また不思議と直接受けられるようにもなっています。

 

母は奇跡的に何度も持ち直しました。

 

弟はその日から24日まで韓国に出張とのことで

私と会う事なく、向かいました。

 

「子供に愛情の深い母はきっと待ってくれるだろう」と

嫁である寿美の言葉もあり、予定どおり仕事で向かうことに・・・

 

血圧が低くなり過ぎて、もう無理かもしれないと

思っていたにもかかわらず、ありがたいことに、

何とか血圧が上がりました。

 

生野区の共和病院について、

ずっと母の手を握り声かけをしました。

 

全身は骨と皮、

唯一手だけはぷっくりしていました。

それは、これまで何度も握ってきた

母の柔らかい手のままでした。

 

母の柔らかい手、

まだ温もりもある手を握れることに

心から感謝しました。

 

これまで57年間の歴史の中で

母だけのために時間を使わせて頂いたことが、

これまでは

あっただろうか?

 

母は私のためだけに沢山の時間を使ってくれました。

 

いつも何があっても私がどんなことをしても、

母は私を信じてくれる人でした。

 

「私の宝物」と言ってくれる人

その母の側に私はいます。

 

これまでの人生の中でこんな時間を過ごせるとは

夢にも思いませんでした。

 

きっと母が私にくれた最高の贈り物

 

・・・千恵

足元をちゃんと見るんやで

お金はあの世に持っていけへんで

 

人生は、一回だけやで

悔いなく過ごすんやで

 

何のために生きるのか

何のために頑張るのかもゆっくり考える機会やで・・・

そう教えられているようでした。

 

母は幸せだった?

母はほんまにこの人生で良かった?

私にはわからない

 

私と弟を水商売をしながら

一生懸命育ててくれて

全力で私達を守ってくれた

 

いついかなる時も

二人の子供を信じて余計なことを

一切口にしない母

 

私は本当に母の側にずっといることはありませんでした。

 

和歌山での教員時代、

チジミを沢山焼いて差し入れしてくれた母の姿

 

今も思い出します。

 

アカペラでも8トラでもマイク一本で

歌を歌える抜群の歌唱力

 

字も綺麗

絵もうまい(うま過ぎ)

 

小学校三年生の時のカエルの写し(宿題)の事

今も鮮明に覚えています。

 

母が私の宿題を代わってやってくれたものの、

あまりのうまさに直ぐにバレてしまった事件・・・

 

23歳で私が東京に嫁ぎ、年に一回か二回しか会えなくなりました。

 

一人しかおれへん娘さんを遠いところに

嫁に出して・・・

 

と周囲から言われていました。

 

「ええねん、娘が幸せであれば」と。

 

離婚して心配をかけました。

母は一度たりとも近くにいてくれたら・・・

とは口に出しませんでした。

また、元旦那様のことを悪く言ったことも一度もありませんでした。

 

母のあったかい手、

ぷっくりした手を握りしめながら

私は自らを問いました。

 

後で聞いてみたら、

手は透析前でむくんでいたようです。

 

看護師さんに手だけは痩せていない

そのままのぷっくりした母の手であると

と言ったら、

 

「むくんでるんですよ」

と教えてくれました。

 

母は私と一緒に住みたかったはずです。

 

母を見舞い、10月23日の新潟での講演に間に合うために

一度新幹線で東京に戻りました。

 

グリーン車の中で込み上がる感情を抑えきれず、

涙しました。

 

母はいつも私と弟のことを

「私の宝物」と言います。

 

ここ最近は寿美(嫁)も入っていました。

 

母は私の命です。

小学校5年生までしか学校にも通えず

9人兄弟の末っ子で兄姉の子供のお守り

 

学校に通えなかったので、

母はペン習字を習い、練習していました。

 

ペン習字もうまかったです。

絵も料理もヘアアレンジも洋服作りも文化刺繍も

編み物も全てうまかったです。

 

手先が器用で、弟とよくプラモデルも作っていました。

 

手先が器用なのは弟も一緒です。

 

私と父は不器用です。自負しています。

 

漢字が読めず運転免許の学科試験に受からず

一人お店が終わり、部屋で泣いていた母

 

「お母ちゃん

どないしたん?

何で泣いてるの?」

 

と真夜中の3時に母の部屋の灯りがついたままなので

声かけしました。

 

「お母ちゃん、小学校4年生までの漢字しかわからへん

漢字が読まれへんから学科試験になかなか受かれへんねん

実地は全部合格した。学科が受かれへん」

 

「わかった

私が虎の巻に全部平仮名をふったる」

と言って全ての漢字に私がルビを・・・

 

きっと漢字を形で覚えたのでしょう。

その後、次々に学科も合格しました。

 

母は37歳の時運転免許をとりました。

 

無条件に子供を信じてくれた母

本当に心から感謝します。

 

 

上記のメッセージは

2019年10月24日に手帳にかいていたものです。

 

 

 

 

母が29歳、私は8歳

 

 

 

この写真も私が小学校4年生頃だったと思います。

 

 

 

小学校一年生の入学式

制服が間に合わなくて、私は私服で入学式に出ています。

 

きっと、仕事が忙しくて

手配が遅れたのだと思います。

 

子供の頃引っ込み思案で内向的な私は

皆と違うことで

とっても恥ずかしかった記憶があります。

 

 

その後も小学校に通いたく無くて

毎日祖母に手を引かれながら

学校に通った記憶があります。

 

水商売で毎日明け方に帰ってきた両親は

私と弟が学校に行く時間は

寝ている時間

 

学校から戻ると両親は既に仕事場に行くため

祖母に面倒を見てもらっていました。

 

下記の写真は、おそらく独身の時の写真だと思います。

 

 

 

下の写真は弟を抱っこしている母

きっと年齢的には23歳かな?

 

 

若い頃の写真も出てきました。

きっと17歳くらいかな?

 

 

 

 

お嫁入り前の母です。19歳かな?

 

19歳で嫁ぎ、21歳で私を生みました。

 

 

この写真は私を抱っこしてくれている写真です。

 

 

 

3歳くらいかな?2歳かな?

私の子供の頃の写真です。

 

100日の時の私です。

 

水商売をしながら

懸命に私と弟を育ててくれた母

下記の写真の母が着ていたワンピース。。。

 

是非私が着ますので

披露した暁には思い出して頂けたら幸いです。

 

 

 

身長は155cmもないにもかかわらず、

一番太っていた頃は70kgあったとか。。。

 

 

 

上記の写真はもう少し痩せていると思います。

 

 

私が高校生くらいの時

母はきっと37歳くらいです。

 

 

 

この頃がザ・一番体重が多かった時です。

 

33歳くらいかな?

 

 

 

上記の写真は両親を社員に紹介できた時

 

今から14年前です。

 

丸ビルオフィスを見せることができなかった・・・

もっと早く両親を呼べばよかった。

 

後悔も沢山あります。

もっともっと親孝行ができたのではないかと。。。

 

 

大好きな母。

母は私の命です。

 

 

 

家族写真・・・

 

不思議と携帯の待ち受け画面が弟と私が家族写真

 

弟の同級生も驚いていました。

普通子供の写真とか、自分の家族の写真を

携帯の待ち受けにすることはあっても・・・

と。

 

 

 

2019年10月29日に手帳に残したメッセージです。

思いを記録に残そうと手帳にメッセージしました。

 

母が危篤になり、早いもので1週間が過ぎました。

 

本当に時間が過ぎるのは早いです。

 

22日に知らせを受けた私は午後の澁谷まりえさんのセミナー開催の

スタートのご挨拶だけした、大阪に向かった。

 

母を見た瞬間、

もうダメだとおもった。

 

しかしながら母は持ち直してくれた

 

そして、23日に私が新潟での講演会を終え、

まっすぐ病院にかけつけてかた6日が経った。

 

全くわたしのこともわからない母が

 

25日、私に反応してくれた。

26日、「千恵、千恵」と二回言ってくれた。

27日、私が「オモニ大好きやで」と声かけした言葉に対し

   「私も大好き」と返してくれた。

28日、声かけに目をギョロっと開け、手を挙げてくれた

29日、反応は間違いなくしている。

きっと思いは伝わっている。

 

今朝の4時台に ○○さんからメッセージが届きました。

なんとなく私も気になりラインを確認したところ、

ピタリ同じ時間帯にやりとりができた。

 

不思議ですが、以心伝心です。

 

木曜日が休みなので、

こちらに来ると言う。

優しさはセリフではない。

いざと言う時、どのような姿勢を見せることができるか

 

そう考えると、

今回は牧野紀子と阿部由里には感謝しかありません。。

 

営業の欲からと

関西のお客様と面談の約束をした。

 

叱られた。

懸命にスケジュール調整してくれた部下に対し、

とても失礼なことをした。

 

自身を正当化する気はない

 

深い思いや、思いやりを汲むことができない自らを省みた。

ここは大いなる反省である

 

いざと言う瞬間はそうそうはない、

 

その時、どんなこうどうをとれるかはこれまでの

体験や思考

生き様がそうさせているのではないか

 

今回の母の危篤から1週間で沢山の気付きを得た。

 

やがて、自身もいく道である。

 

母のこれまでの人生の集大成

まもなく最期の瞬間を迎えることになる。

 

病院での看護、介護の状況や現状を

この目で見ることで、気づいたことも沢山ある。

 

感謝しかない

今はただただ感謝しかない

 

寿美の存在、衛の存在、

お寿司屋さんの昌洙さんの存在、

衛の親友のスヘンさんの存在

 

本当に弟夫婦は素晴らしい

今回母のおかげで余計よくわかった。

 

 

2019年10月30日のメモ

 

「千恵、大きくなったらなんになりたいん?」

 

「歴史に名前を残す人間になりたいねん・・・」

 

「あんたは大きいこと言うなあ」

 

高校3年生の時、

進路に迷っていた私に母が言った言葉

「あんたは、決めたらやる子や」

 

やれる子やではなく、やる子や

 

母の発した言葉、

支えてくれた存在、

何があっても信じてくれた母・・・

 

決して否定しない母

常に子供を信じ承認してくれる母

 

母のお陰で今の私があります。

 

2019年12月31日

母の存在がどれだけ大きいか

失って初めてわかることがあります。

 

母は何があっても子供を信じてくれました。

 

私は絶対に忘れません。

34歳の名古屋駅での再会・・・

今も思い出したら泣けてきます。

 

本当にいろいろありました。

23年で私の人生は大きく変わりました。

 

お金はあの世には持っていけません。

大事な人を大事にします。

 

父に対する誤解、怒り・・・

 

私は今はその思いもわかるようになりました。

 

これまでの数多くの思い込み

ごめんなさい。

 

母は私の最愛なる人です。

母の代わりはいません。

 

母は本当に素晴らしい生き方をしました。

 

何一つ残さなかった

 

綺麗に亡くなりました。

 

私の命、母は私のこの世で一番大切な人

本当に大事な大事な母でした。

 

これからは母の分まで必ず恩返しの人生を歩みます。

 

もっと親孝行をすれば良かった。

もっと母の大好きなお寿司を食べさせてあげれば良かった。

自分を優先して、母のそばでもっともっと過ごせば良かった。

 

もっともっと母の手を握ってあげれば良かった。

もっともっと大きな愛で抱きしめてあげれば良かった。

 

オモニ、オモニ、オモニ

逢いたいよ・・・

オモニ、オモニ、オモニ、

感謝します。

 

私のオモニ、

オモニ、オモニ、オモニ、

大好きだよ

オモニ、オモニ、オモニ・・・

 

在日韓国人二世で生まれ

日本語しか喋れなかった母

それでも韓国の民謡をアカペラで歌った

 

日本語の漢字も読めない

韓国語も読めない

 

では、どうやって覚えたか?

耳で覚え練習をし、歌えるようになった

 

母は実はものすごい努力家だった。

私とは比べものにならないほど

努力家だった

 

年末年始を父と二人で過ごし、

母の話を沢山した

 

父が言った

 

「あいつは根性あるで

正義に関してはとことんまげへん・・・」

 

保証人になって作ってしまった父の借金1億円

 

約束は守らなあかん。。。」

と全額返済した。

 

そして脳梗塞で倒れた。

商売をやめ、

父の仕事をしている現場で賄いの仕事をした。

 

胃癌になり、糖尿病から

最後は2日に一度は透析…

 

苦労ばかりの人生

本当に母は幸せだったのか?

 

母は子供と交わした小さな約束も破らなかった・・・

 

誠実とは、

言ったことを成すと書く。

 

姿勢を教えてくれたのは

母であると改めて確信しました。

 

仕事の都合で

告別式には参加はできなかった

 

しかしながら

22日に危篤の知らせを受け

11月3日まで

 

私はずっと母の側にいることができた

 

全てのスケジュールを調整し

 

母の看病をさせてくれた社員に感謝します。

 

お通夜で席で

更に感動がありました。

 

ありがとうございます。

 

百の美辞麗句より一つの行動。。。

 

 

ありがとうございます。

 

最後までお読みくださり感謝申し上げます。

 

今日は

母の誕生日。。。

 

ありがとう。

 

母の分まで必ず恩返し人生を歩みます。

 

 

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