朝倉千恵子オフィシャルブログ

「私、パソコン苦手です」という人のためのZoom時代のリモート営業入門

父の愛

 

今日は亡き父の83回目の誕生日。

 

父を偲んでブログを書かせて頂きます。

 

今年の3月6日

父は呆気なく亡くなりました。

 

 

昨年の11月3日に亡くなりました母の後を追ったのか

母が大好きな父を呼んだのか…

 

1月26日に軽い脳梗塞で倒れ、その後1ヶ月半で

亡くなりました。

 

娘の私は・・・

本音をお伝えすると、数日前まで悔いばかりが残っておりました。

 

もっと親孝行をすれば良かった。

もっと逢いに行けば良かった。

 

振り返って思うこと

父と母の関係も本当に不思議です。

 

トータルで離れて暮らしていた時期が17年以上あったにも関わらず・・・

やはり夫婦って本当に不思議だなって思います。

 

夫婦でしか理解できない世界があるのですね。

 

母のお通夜に向かう車の中で

父が母の死を哀しみ泣く姿を見て

 

父の妹が

 

「お兄ちゃん

何 泣いてるの?

 

そんなに泣くんやったら

生きている時にもっとお姉さんを

大事にしたら良かったやん?」

 

妹は、

妹だからこそ兄に好き勝手言えますね。

 

大好きな叔母が父のお通夜の時に

そのエピソードをわたしに教えてくれました。

 

近年も7年間離れて暮らしていた両親

 

母は、施設に

父は実家で一人で暮らしていました。

 

「わしらは仲良かったんや…」

 

と、父が叔母に言ったそうです。

 

本当に仲が良かったのでしょうね。

今ならその意味がわかります。

 

 

 

 

この写真は父が何歳の時のものなのか?

 

野球部に所属していたと聞いたことはないため

社会人になって草野球の時のものでしょうか?

 

とっても印象的な写真なので掲載しました。

スーツやジャケット姿の写真しか見たことがなかったため

妙に新鮮な写真でした。

 

実家を整理した際、家族のアルバムから出てきました。

 

父の荷物は、父が病院に入院している時に

私が全て整理しました。

 

娘の勝手ながらの判断で

もう一人暮らしは難しいと判断したため、

 

2月1日2日の両日で全ての実家の荷物を整理しました。

 

その際の感想をまとめた牧野と阿部に送ったメッセージがあります。

その時に抱いた正直な思いをあえて残したいと思います。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

初めて自分で鍵を開け、
初めて自分で鍵を閉めました。

 

2月1日、2日の両日で
貝塚の実家の全ての荷物の整理ができました。

 

父が大事にしていた骨董品も2月1日
引き取ってもらいました。

 

弟の嫁 寿美と二人で両日、
実家の整頓を行ないました。

 

この後、実家を貸すなり売るなりするにせよ
リメイク・ハウスクリーニング・リフォームする
必要もあり、
見積もり含め、昨日その手配もしました。

 

骨董品の撤去は2トントラック4台でした。

 

その他の荷物の整理も
寿美と二人で互いを褒め、讃えあえるくらい
懸命に整頓しました。

 

母と違い父の荷物の量は100倍くらいありました。

 

今は東京に向かう新幹線の中です。

 

本来であれば
未来会議ができる予定だったにもかかわらず
申し訳ありません。

 

お陰様でこの3日を、有意義に活用できました。
父の見舞いにも3回行きました。

 

「アボジ、私 誰かわかる?」
と都度 確認すると、

 

「わかるよ、千恵子やろ」
と答えてくれました。

 

しかしながら、
寿美のことは名前が出てきませんでした。

 

とても可哀そうな質問をしてしましました。

 

「そしたら、この人は誰かわかる?」
頷いた後名前を言えず、
急に顔が自信を失くしたような表情となりました。

 

しっかりわかっているのかを確かめたかったのですが
傷つけてしまいました。

 

いじめにも似た質問をしてしまい、
自らをとっても悔いました。

 

「アボジ、寿美です」
と寿美は見舞う際に必ず言ってくれます。

 

私は時折、見せる視線の遠さに
本当にわかっているのかを確かめてしまいました。

 

答えることのできない父のその後の表情が忘れられません。

 

よく父を面倒みてくださる近所のあべさんに対しても
2日前はわかっていたのですが
昨日は別の人の名前を呼んだとのこと・・・

 

あべさんにも私の苦い経験を電話で伝え
「お父さん、あべちゃんですよ」
って声かけをお願いしますと伝えました。

 

どんどん、老いる父を見ながら思うことが沢山ありました。

 

年末年始を父と一緒に二人っきりで過ごし、
いっぱい語り会えた奇跡に感謝しました。

 

「子供を叱るなきた道じゃ
年寄り笑うないく道じゃ」

 

昔教わった言葉が浮かびました。

 

実家の全ての荷物を整頓した際、
懐かしい様々なものが出てきました。

 

今回、私がいかなかったら
全て捨てられていたかもしれません。

 

引き出し一つ一つを全て確認しました。

 

私が送った手紙
牧野さんの丁寧な文字で書かれたアルバム

 

私が送ったサイン本

 

毎回の仕送りの代わりに渡していたお金を入れた封筒・・・
全て保管していました。

 

32歳で離婚した時に父母に宛てた手紙まで出てきました。

 

両親の結婚式の写真、私の結婚式の写真(大きく引き伸ばしたパネル)

 

結婚の際に持っていけなかった
大好きな先輩との写真学生時代のアルバム含め
35年前の色んな思いの中、残していったアルバムを見ながら
色んなことを思いました。

 

この2日間で父の大事にしていた
全てのものを自分の手で整理しました。

 

悔いはないです。

 

と同時に、
もう私には帰る実家はないんだと
実感しました。

 

朝倉千恵子

 

 

以下のメッセージは父が

亡くなった後に友人に送ったメッセージです。

 

心の声を正直に文字にしました。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

「もっと質問すれば良かった。
もっと聞けば良かった。

 

もっと時間を取れば良かった。
もっと沢山話せば良かった。

 

友人からは

 

「交わした言葉がどうだったよりも、

一緒に過ごせた時間こそが、

何よりもお父様にとっての思い出になると思います。

 

是非、恩送りしていって下さい。」

と、

メッセージをいただきました。

 

心の声

父が亡くなった後、思いを記録と記憶に残そうと、

文字にしました。

 

「オモニ。。。
連れていかんといて。。。

 

何度も母の遺影の前で手をあわせました。

その甲斐なく、
本日3月6日午前10時9分
父があっけなく亡くなりました。

 

ちょうど、名古屋支店にいたタイミング

 

弟からの連絡を受け、急いで
新幹線に飛び乗りました。

 

9時33分発の新幹線に間に合い、
何とか到着するまで
待ってて欲しいと祈りましたが、

 

残念ながら
父は私を待ってはくれず、亡くなりました。

 

弟と嫁の寿美が父を看取ってくれました。

貝塚の実家で孤独死することなく、
入院先の病院で最期を終えました。

 

あまりにも急すぎてまだ実感がありません。

 

新大阪からタクシーで病院に向かいました。
病院に着いたのは、11時15分

 

父の病室に入ったら
看護師さんが綺麗に整えてくれていました。

 

まるで寝ているかのようなお顔でした。
安らかに眠った感じです。

 

体に触れるとまだあったかかったです。

 

もう少し待っていて欲しかった
最後にもう一声欲しかった

 

入院先の病院で

 

死因は、
誤嚥性肺炎でした。

 

 

もっと出来ることがあったと
悔いが残ります。

 

先日、見舞いに行った時、

 

「一緒にお寿司食べよな、
一緒に焼肉食べよなー」と
父と約束しました。

 

「すまんなぁ
迷惑ばかりかけて・・・」

 

と言ったので

 

何にも迷惑かけてないよ・・・と

 

ずっと父の頭を私は撫でていました。

 

親孝行にし過ぎはない…

 

後悔先に立たず…

 

もっともっと父との時間を過ごせば良かった

もっともっといっぱい質問すれば良かった。

 

父が亡くなった日の夜は丸ビルでオンラインでの塾生との集いがありました。

 

亡くなった後の全ての事柄を弟に託し

わたしは東京に戻りました。

 

夜の集いを終え、最終の新幹線で再び大阪へ…

 

父とその日の夜、一緒の部屋で休み

次の日はお通夜

 

告別式の日は丸ビルでイベントがあったため

始発で新大阪から東京に戻り

 

再度、お骨を拾うために再び大阪へ…

 

58歳にして生まれて初めて骨を拾いました。

骨さえも愛おしいと思えました。

 

過去にあんなに恨んでいたのに、そう思えたことは、不思議です。

告別式に出られないわたし宛に

弟からメッセージが。。。

 

「ヌナ(弟が私を呼ぶお姉ちゃんの意味)、今日の大阪も、一円晴れやわ!

 

今日、家で焼肉します!
アボジも、一緒にと、そんな感じです!」

 

と連絡が来ました。

 

母の告別式の日も一円晴れでした。

 

一円晴れとは、

崩しようのない天気を意味するそうです。

 

母が間違いなく父を迎えに来ました。

 

今頃一緒に会話しているかもしれません。

 

母は最後まで父を好いていました。

 

あんなに苦労かけられたにも関わらず…

 

 

今日は始発で

東京↔︎大阪 2往復!
お疲れ様です。

 

従姉妹からメッセージが

 

「アボジのお骨を拾うことができて良かったね。

 

突然のことで、ほんま
実感がわかないわ。

 

今日、棺の中にお花をたむけて、お顔をずっと見て…

 

「もぅ、これから
どこに行っても、アジェ(おじさんのこと)に
出会うことがないか、、、」て、しみじみおもいました。

 

いつも、オシャレなアジェ!
シャキッと服を着こなしてはったね。

 

アボジ、オモニが
いてくれはったし、良い風に
気も張って色々と乗り越えてこられたとおもう。

 

張り詰めた心の糸が切れ、
悲しみ、寂しさにおそわれるかも。
身体に気を付けて。

 

いままで、
アポジ、オモニを
大事に看てあげて、
親孝行できて、良かったねぇ。

 

「親孝行にし過ぎはない!」
お姉ちゃんがいつも言うてるね!

 

お疲れ様でした。

 

今日は、ゆっくりやすんでね。

 

 

親友から

 

「チエさん

お父様のご冥福を心からお祈り致します。

 

親は、子どもの後ろ盾と聞いています。

存在してくれているだけで力になってくれているとも。

 

いつも、チエさんの人生に大切な言葉を言ってくださっていたお父様の言葉を思い出します。
私の心にもいつも響いていました。

 

人を大切にする、優しい方だったんだろうと想像していました。

 

私もお父様のご冥福を祈り続けます。
チエさんもお身体をどうぞ大切にしてください。

 

誰にも連絡していないと言うチエさんのお言葉、了解致しました。

 

落ち着きましたら、ゆっくりと4人で会いたいです。」

 

あたたかいメッセージ

 

支えられているなと実感しました。

ありがとうございます。

 

父の死は、社員と数名にしか報告はしませんでした。

いや、できませんでした。

 

世の中はコロナが蔓延し始めたタイミング

 

私の父の死のことを報告するような時期ではありませんでした。

 

11月24日の父の誕生日には少しコロナも落ち着くかもしれない

その時には父を偲んでブログを書こうとその時に思いました。

 

本日は、

少し父のことを紹介します。

 

アルバムから父の昔の写真を引っ張り出しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

父は周囲から本当に紳士と言われていました。

 

ジェントルマン…

 

子供の頃

わたしは父が大好きでした。

 

かっこいい父

教育界の副会長をしている時、父はよく学校に来ていました。

 

 

同級生から

 

「あのかっこいい人誰?」

の声に反応し

 

窓の外を見ると

 

そこには颯爽と歩く父の姿がありました。

 

 

わたしが父のことを一切語らなくなったのは

高校1年生から

 

人の手形の裏判を押してしまったが故に

保証人となり1億円の借金を背負ってしまいました。

 

母は、水商売をしながら

その借金を全額返済しました。

 

そして、

母は全ての借金を返済し終えたタイミングに脳梗塞で倒れました。

 

子供のためだけに生きてきた母

 

しかしながら父は取り立てから逃げるように

私たちの側からもいなくなりました。

 

だからこそわたしはずっと父を許せなかったのです。

 

母を苦しめた父

私達を捨てた父

 

そう思っていました。

 

その誤解が解けたのは今から12年前

 

わたしが46歳の時

 

何故その決断をしたのかを子供の頃のわたしには理解出来なかったのです。

 

自分も歳を重ね

色んな経験も積み

 

痛みを知り何故父が保証人になったのかを理解できるようになりました。

 

そして、

そのことを父に言葉で発したのは、

2年前

 

「お父ちゃんは

人を助けようとしたんやなぁ…」

 

ようやく理解ができて

そのことを口にしたわたしに

 

「お前らに苦労かけた…」

と言葉にし、父が泣きました。

 

恨んでいました。

ずっと。

 

学生時代

 

「千恵はお父さんおらへんの?」

と聞かれるくらい

 

一切父のことは口にもしませんでした。

 

わたしが結婚する前くらいに

戻ってきて…

 

結婚式には両親夫婦揃って出席はしてくれたものの

私は全く父を許していませんでした。

 

未熟な私は、父のその時の決断がどのような

ものであったかも知る余地もありませんでした。

 

後で知ったのですが父はとっても子煩悩だったそうです。

 

昔は子供を父親が抱っこする姿も美徳とされていない時代

 

それでも父は人に誹謗されても

私と弟を抱っこしてくれていたようです。

 

下記の写真で初めて知りました。

 

 

 

 

私を初めて抱っこした時はどんな気持ちだったのか

 

もっと質問すれば良かったです。

 

もっともっと

いっぱい聴けば良かった。

と今頃後悔している自分がいます。

 

 

 

ここは、南紀白浜かな?

初めて両親が東京に来てくれた時のアルバムも

大切に保管されていました。

 

その時はまだ帝国ホテルタワーの時でした。

2008年かな?

 

社員と一緒に焼肉を食べ、

次の日には浅草に・・・

 

楽しかったな。

 

丸ビルは結局見て貰えませんでしたが

両親と一緒に私の家で沢山会話ができたこと

 

とっても幸せな時間でした。

 

両親に泊まってほしくて

奮発して帝国ホテルの手配もしていましたが

狭くても私の家がいいとのことで

マンションで三人で寝ました。

 

いい時間でした。

 

以下は浅草観光をした時ものも。

 

 

 

 

 

 

 

母と手を繋いで歩く姿を牧野が写真におさめてくれていました。

 

後ろ姿まで残してくれてありがたいです。

 

 

 

 

 

 

アルバムをみればその時の思い出が鮮明に浮かびます。

 

 

 

高校生の時の父。。。

 

 

 

父は学生時代柔道部に所属していました。

 

勉強もできたそうです。

 

行きたかった大学は早稲田の政経・・・

しかしながら妹が三人いて

妹の学費を稼ぐために大学進学は諦めたようです。

 

ずっと、早稲田の政経に行きたかったと

父が語っていたため、

 

私は二人の子供を早稲田大学に進学して欲しいと思い

娘と息子を早稲田大学で行っていた

子供のための「実験教室」に毎年参加させていました。

 

いつか、ここに来るんだよ。。。

と潜在意識に刷り込むために。。。

 

二人の子供も

二人の甥っ子にも

早稲田大学に行ってくれたらと

思っていましたが、みな別の大学に・・・

 

父の憧れていた早稲田大学には

孫は行ってはくれませんでした。(🤣)

 

 

父がいたからこその私と弟。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前列左は母・・・その前が私。。。

 

 

どう見ても男の子ですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

父に抱っこしてもらっている写真を実家で見つけ

声に出して泣きました。

 

 

 

 

父が亡くなったのは、今年の3月6日

 

正直、コロナのこともあり、

父の死を泣くゆとりもありませんでした。

 

会社が潰れるかもしれない

どうやって社員の雇用を守る?

 

そればかり考えていました。

 

コロナによって、世の中が大変な時期に

自分の親の事を話すことはないと思いました。

 

 

ようやく、父のことを偲ぶことができました。

 

今日は、父の83回目の誕生日

一緒にお祝いします。

 

11月2日

分骨してもらい、母の一周忌を終え、お骨を受け取ってきました。

今は父と母の二人と一緒に

私は暮らしています。

 

二人が揃う前は

父のことを思うと申し訳なくて

10月は、泣いてばかりいました。

 

会社の業績のことが気になり過ぎて

正直父の死を悲しむ余裕もありませんでした。

 

ようやく泣けるようになったのかもしれません。

 

夫婦二人が揃った後は

不思議と奇跡が沢山起こります。

 

パーソナルトレーナーの蘭ちゃんが一言

 

「今頃、オモニは

お父様を天国で独り占めしていますね。」

 

そうだ!

ずっとずっと母はやきもちばかり焼いていました。

 

若いころは愚痴一つ言わず、耐えていたのだと思います。

父があまりにももてましたから・・・

 

今頃本当に独り占めして

母は喜んでいると思います。

 

あんなに苦労かけられたのに

恨みもないのでしょうね。

 

1億円の借金を返済しおわった後に

母は脳梗塞で倒れました。

 

父を恨まず、見事に返済しきった母

 

やっぱりすごいなって思います。

 

「お母ちゃん

離婚したら借金返済しいんでええって聞いたよ・・・」

 

「あかん

借りたものは返さな・・・」

 

「借りてないやん」

 

と言っても

保証人になった事実は消えず

 

約束は守らなあかんと言って

毎月水商売をしながら

100万円ずつ返済していた母

 

やっぱり頼もしいなって思います。

 

私が働く女性の応援団長になると決めたのは

母の生きる姿があったからです。

 

夫婦の愛ってすごいです。

 

男女の関係がもしかしたら

最も崇高かもしれませんね。

 

 

最後に思い出したエピソードがあります。

 

実家にや○ざが取り立てに来て

家電などを差し押さえするために

赤い紙をペタペタ貼っている姿を見て

 

私が

 

強面の人の前で

 

父の前に立ち、仁王立ちでバシッと守りながら

「うちのおとうちゃんいじめたら

私が承知せえへんで!」

 

と食ってかかったようです。

 

「お前は正義感が強いから

やくざ相手に食ってかかってたで・・・」

 

その話をしては、その光景を思い出しては

父が泣くのです。

 

正義感が強い

弱いものいじめは絶対にしない

 

そんな娘だったようです。

 

やくざ相手に

立ち向かったことなど

全く覚えていません。

 

しかしながら

父はそれを思い出しては

 

父が私を守ろうとした姿勢を語ってくれました。

 

今思えば、

父は自分の私利私欲のために生きた人ではありませんでした。

 

人を救うために保証人となり

家族とも離れいろんな仕事をしたようです。

きっと家族とも離れものすごく寂しかったと思います。

 

最後は滋賀県で父の姉の経営する土木関係の

仕事をしていました。

 

長靴を履いて

作業着姿で一生懸命仕事をする父の姿が実は

私は好きでした。

 

かっこいいジェントルマン

マスターマスターと言われている時代よりも

肉体労働を一生懸命やっている父がとってもカッコよく思いました。

 

昨年の11月3日に母を

今年の3月6日に父を亡くした私ですが

今はまた新たな励ましと力を得た感じがします。

 

更に精進します。

 

両親の分までお世話になった方々に御恩返しをします。

 

最後まで長文をお読みくださり、

感謝申し上げます。

 

ありがとうございました。

 

 

朝倉千恵子拝

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